浜松市史 ニ
第七章 文化の興隆
第五節 庶民の教養・娯楽
一 俳諧
俳諧の庶民化
徐生
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【
徐生
句碑】
吉田徐生
(一七四六-一八三三)は
雪中庵
蓼太
の門人で、別号を玄々斎・風月庵・四海庵といい、天明以後棚倉におもむくまで浜松俳壇を指導につとめた(
久野仙雨
『
浜松句碑めぐり
』)。文政五年の『歳旦歳暮』に「梅三輪是より春のはなはなし 七十七翁
徐生
」とある。浜松の兄弟庵連は
徐生
の功績をたたえ、文政六年二月「泡よりもちる花かろし水の上
徐生
」と刻んだ句碑を
浜松城
内に建てている。(のちに
伝馬町
教興寺
に移されたが、いまは残っていない)
徐生
は文政五年に棚倉で没したものと推察される。