つぎに
余荷(よない)がある。これは
宿駅が困窮した場合に、
増助郷村がその
宿駅の人馬を補助するのである。
浜松宿では天保六年十一月に
大火が起こり、
伝馬町ほか五か町が類焼し、常備人馬の持立が困難となったので、御定人馬百疋百人のうち、人足三十人分、馬五十疋分を
定助郷ならびに
増助郷の村々で負担した。【期間】そしてこの
余荷勤めの期間は天保七年から同十二年までの五か年間であった。
【変更】
増助郷は臨時的一時的な拑置であるから、時期を異にすれば
増助郷の数も村も変更された。【継続】
浜松宿では嘉永二年(一八四九)から文久三年までの十五年間に総増助で
余荷してきたが、その季明になっても宿の困窮状態は恢復しないばかりか東海道筋の通行はますます頻繁となってきたので、当分の間これまでのとおりに
増助郷を継続することとなった。その請証文の中に
柴本村外四十二か村の
余荷勤の
増助郷の村々が出ている。これをみると、前の
増助郷に比べて数が増しているばかりでなく、その分布も比較的に
浜松宿に接し、その北部に拡がり
天竜川北岸から
都田方面までを範囲として密集している。そしてその中には
定助郷と重複しているものも相当見受けられる。
(表)天保7年
浜松宿の
増助郷(表)嘉永年間
浜松宿の
増助郷