【
万治道中記】万治二年(一六五九)の道中記は、東海道を記したこの種のものではもっとも古いが、これには東海道の各宿場の「とまり」を「よし」「中」「悪し」の三段階に評価しており、「はままつ」は「よし」の段階にはいっている。【
一目玉鉾 広重の日記】また元禄二年(一六八九)の西鶴の『
一目玉鉾』にも、浜松について「町筋長くはんじょうの宿なり、右のかた町中に
諏訪大明神の社あり」と記しているし、やや年代は下るが広重も、文政十三年九月四日浜松に泊り「浜松御
城下町にてまことに繁昌の所なり。今宵は此所に宿る(中略)。食後の運動に町を遊覧す」と浜松の繁華を述べている(『広重東海道下り日記』)。【
改元紀行】しかしもっともよく当時の
浜松宿を活写しているのは
大田南畝(おおたなんぼ)が著した『
改元紀行』である。その享和元年(一八〇一)三月三日のくだりをみると
浜松宿へ泊り「まこと天竜の河原にのぞめば風烈しくして砂礫を飛し輿の戸を打つ音ばらばらと聞こゆ。寒きこと膚に徹れり。辛うじて舟もて渡りてむかひの岸に着く。河原ひろくして水の流れ定まらず、左に
妙恩寺あり。又
頭陀寺の薬師に行く道あり。天竜の西、
町屋村といふところにて京と江戸との行程同里なりと聞けば、行先のほども思はれて頼もし。【浜松のからっかぜ】これよりはてしもなき松原を行くに風いよいよ烈くして輿の戸を吹き落すこと数多たび、寒さも増さりて冬の日の如し。同僚なる田中氏に行き逢ひしが互に風をおそれしにや言葉も交さで行き過ごす。此辺かの「浜松の音はざゝんざ」と謡ひし所なるべし。
(表)東海道遠江9
宿駅一覧表(天保14年)
宿番 | | 戸数 | 人口 | 本陣数 | 脇本陣数 | 旅籠屋数 |
24 | 金谷 | 1004 | 4271 | 3 | 1 | 51 |
25 | 日坂 | 168 | 750 | 1 | 1 | 33 |
26 | 掛川 | 960 | 3443 | 2 | 0 | 30 |
27 | 袋井 | 195 | 843 | 3 | 0 | 50 |
28 | 見付 | 1029 | 3935 | 2 | 1 | 56 |
29 | 浜松 | 1622 | 5964 | 6 | 0 | 94 |
30 | 舞坂 | 541 | 2475 | 2 | 1 | 28 |
31 | 新居 | 797 | 3474 | 3 | 0 | 26 |
32 | 白須賀 | 613 | 2704 | 1 | 1 | 27 |