幕末(弘化四年、一八四七)には浜辺・万斛・国領・浜名・川東の五組となっている(『有玉村高林家諸用記』)。そうした組の推移をみると、万斛・国領・浜辺の三組が比較的に固定しており、他の諸組には変動があったことが知られ、その背後に村々の変動もあったことが想像される。なお、江戸後期にはこれらの代官が常勤した藩の御役所が、有玉(ありたま)・三嶋(みしま)・入野(いりの)などにあった。
【地代官】『旅籠町平右衛門記録』によると、下表のとおり江戸時代の中ごろ、藩領の「寺嶋八幡地」(後述)が災害をうけた組に藩の「地代官」が見分をして年貢の差引を行なっている。この地代官は収納官僚としての藩士であったが、前述の代官とは別の存在のように思われ、また、同地の専任代官とも断定しかねる。