慶長八年二月、家康の将軍宣下の儀式にたずさわり、その後は摂家・門跡・諸公家の往来に際してその儀式をつかさどり、朝鮮琉球の使者にたいし披露役をつとめた。【高家】これより幕末まで大沢家歴代は幕府の高家としてその任にあたることとなった。
寛永(かんえい)十七年に基宿が堀江で死去し(享年七十六歳、同地宿芦寺(しゅくろじ)に葬る)、子基重が遺跡をついだ。【知行地】その所領は前表にみるとおり庄内地区八か村と蔵松(くらまつ)(倉松)村の計九か村二千五百五十六石余であり、これが幕末までの旗本大沢領の基本的部分となった。こののち、宝永(ほうえい)二年(一七〇五)に千石加増され合計三千五百五十六石となり、それが基之の代(寛政のころ)にも継承されているが、加増分のその後の所属については明らかにしがたい。なお、大沢領については第五章藻草の項を参照されたい。

大沢氏略系
(表)大沢氏所領変遷表
年代 | 永禄12 | 慶長5 | 寛永2 | 寛永17 | 寛文5 | 元禄13 | 宝永2 | ||||
(1569) | (1600) | (1625) | (1640) | (1665) | (1700) | (1705) | |||||
領主 | 基胤 | 基宿 | 基宿 | 基重 | 基重 | 基将 | 基隆 | 基隆 | |||
領地名・石高 | 崎村櫛 | 敷智郡六か村 | 35 | 526 | 父基宿の遺領つぐ | 村櫛 | 571 | 豊田 | |||
和田 | 325 | 344 | 和田 | 325 | 山名 | ||||||
無木 | 671 | 80 | 堀江 | 671 | 敷智 | ||||||
上田 | 29 | 49 | 西 | 29 | |||||||
石丸 | 合計一五五〇石余 | 451 | 乙君 | (神田村?) | 三郡の内で計一〇〇〇石加増 | ||||||
呉松の内 | 42 | 呉松 | 461 | ||||||||
和地の内 | 細田 | 42 | |||||||||
伊左地 | 白須 | ||||||||||
佐浜 | 平松 | 80 | |||||||||
内山 | 内山 | 49 | |||||||||
尾奈郷 | |||||||||||
合計 | 6村 | 4村 | 9村 | 10村 | 2556 | 3556 | |||||
2556 | 大沢領 | ||||||||||
備考 | 石未満切捨 | 庄内地区 | 石未満切捨 | ||||||||
典拠 | 家康判物 | 寛修家譜 | 台徳院殿朱印状 | 寛修家譜 | 幕府裁許絵図 | 元禄高帳 | 寛修家譜 |