【過小の村】また
国領組五十三か村の一村平均戸数は三十七であり、そのうち二十戸未満の村が十一ある。これらは一般には過小の村とされている。当時の村の規模の適否は戸数と石高との関連で考えられた。とくに、近世後半期には村の石高と人口とは大体において正比例していたといってよい。
大坂の
町人学者
山片蟠桃(やまがたばんとう)の著『一致共和対策弁』(文化六年)に「凡人別の法一万石一万人を中庸とす、夫より多き在り少き有て其数に随ひ人を他国へ出し又は他国より入べし」とみえ、『地方国本録』には「人別は石高百石百人、家数廿軒程、中の村也、右の積より人数多き所は暮方宜かるべく、高より人家共に不足の所は衰微の村方と知る」とある。このような基準で前掲
国領組村々の石高・家数・人数および全人口の約二六%にあたる出人について検討することは興味ぶかい(後述第六章)。ただし、生活程度や村の盛衰は右の基準観点からのみでは測定できないのであって、そこに石高制の変貌を考慮する必要がある。
(表)一村平均石高表(単位石)
年代 | 寛文 | 元禄 | 天保 |
地域 |
全国 | | 409 | 489 |
遠江国 | | 300 | 338 |
浜松地方 | 敷智郡 | 258(53村) | 322 | 358 |
長上郡 | 240(66村) | 209 | 243 |
豊田郡 | 129(27村) | 213 | 208 |
浜松領内国領組 | | 210 | |
浜松領(水野氏) | | | 273 |
備考 | 寛文4年印知の浜松藩領のうち | 国領組53か村は享保4年 | |