【明応の地震
今切の水道】明応七年(一四九八)八月、近畿地方に大地震があり、伊勢(三重県)・三河(愛知県)・駿河・伊豆の各国沿岸では海水があふれた。二十五日遠江の海もあふれ、
荒井崎を破壊し、
浜名湖と通じた。『
遠江国風土記伝』とか『
東海道名所図絵』によると、このことは明応八年六月十日に生起したとある。しかし明応七年の地震は、『
御湯殿上日記』・『後法興院政家記』・『実隆公記』・『子良館記』・『
妙法寺記』などその時点の日記に書かれていて、いささかの疑いもない。しかも
飛鳥井雅康は明応八年五月、富士山遊覧のため下向し、帰途六月十日小夜中山、十三日
引馬里、十五目
汐見坂を通過している。しかしその記事(『
富士歴覧記』)のなかに風雨・地震のことや沿道に罹災のことはみえない。
【永正の地震】また永正七年(一五一〇)八月二十七日、遠江に海嘯がおこり
今切はまったく崩壊した(『
円通松堂禅師語録』『
皇年代記』『
足利季世記』『
重編応仁記』)。いま
浜名川のあとが残っている。

浜名川の跡(浜名郡新居町橋本)
【天文の悪風】天文八年(一五三九)、遠江に「悪風」があり、
大福寺の仁王像は破損した(仁王像胎内銘による。高橋佑吉編『
浜名史論』下巻)。