解題・説明
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井上河内守正直が浜松藩主だった江戸時代末期の浜松宿の絵図である。彩色写図で、中央が浜松宿、西南部の東海道の部分は舞坂宿入口まで延びているためつないでいる。また、北西部の本坂道(姫街道)も気賀入口まで描かれているので、これまた宿部分から継ぎ足している。宿と二つの街道を入れた絵図は大変珍しい。 / これは京都の大工の棟梁として有名な中井家の配下にあった平岡為央の作図といわれ、東海道のいろいろな宿場と街道を描いた絵図である。明治天皇の御東幸の準備として、街道や宿場の警備、宿舎の手配などのための絵図であろう。しばらく前に起こった大地震・津波を経験しているだけに、東海道を使えない場合を考慮して姫街道も克明に記している。 / 浜松宿の部分には主要な道路のほか、寺院としては普大寺、法林寺、齢正寺(齢松寺)、心造寺、鴨江寺、普済寺、西来院、宗源院、龍禅寺、天林寺、広巌寺など宿以外でも有名な寺院が出ている。神社は五社神社や諏訪神社をはじめ、宿から遠く離れた八幡宮も出ている。主要街道では番所の所在がしっかりと記され、一部の橋には土橋、石橋などの書き込みもある。浜松の東はずれの馬込橋の部分に「東京方」と書かれていることから慶応4年(1868)の7月17日以降、明治に改元された9月8日までの間に描かれていることがわかる。 / 東海道は上新町から八丁縄手、東若林村、西若林村、増楽村、高塚村、篠原村、坪井村、馬郡村と続き、舞坂宿入口まで丁寧に記されている。沿道の寺院や高塚池(高塚川)、立場本陣、五良兵衛(長者の小野田五郎兵衛)、領境を始め遠くの五位弘之助陣屋(志都呂陣屋)まで原色できれいに描かれている。 / 本坂道は名残口の番所から追分、大谷村、追ケ谷(老いケ谷)村、刑部村を経て、落合橋まで記されている。その先は気賀入口と書かれている。追分の付近には三方原と記され、金指道、市野道も出ている。
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